56年後に掴んだ消息

純粋な翻訳・通訳ではありませんが、これは当社が今まで手掛けた仕事の中でもっとも難しいものの1つであり、もっとも嬉しい結果となったものでもあります。ある元英国軍人が50年以上前に日本で知り合った女性を探すというものでした。その結果はスコットランドのオーバン・タイムズ紙とサンデー・ポスト紙に以下の記事として掲載されましたが、それまでの当社の関りは記事の後にあります。

ピーター・マッキロップ氏と浅山枝美子氏に関するオーバン・タイムズの記事

ピーター・マッキロップ氏と浅山枝美子氏に関するサンデー・ポストの記事

「ルリ子」を探し出すまでの道程

ことの始まりは2004年の秋に、ある日本語の手紙を英語に訳して欲しいという仕事を受けたことです。そのときから既に思いがけない問題に直面しました。送られてきた手紙のコピーには解読不可能な部分がかなり多く、内容も辻褄の合わないものとなっていたからです。しばらく考えた後で、この手紙は過去に1度破られ、その後修復されたものではないか、そしてそのときに間違えて張り合わされたものではないかという可能性に気が付きました。手紙をスキャナーで読み込み、その画像の中で破られた線であろうところをマウスで慎重に辿り、注意深く破片を組み換えたときにやっと読めるものとなりました。

「ピーター」という男性に宛てられた愛情のこもったその手紙は、「ルリ子」という女性からのものでした。ピーター・マキロップ氏は当社に仕事を依頼された方のお父様でした。彼は1950〜51年に約1年間英国陸軍主計部隊の機械操作員として呉市に滞在していたのです。その手紙は当時何度かデートをし、その後も数年間文通を続けていた「アサヤマ・エミコ」という女性からのものということでした。

英訳された手紙を読んだマキロップさんから、「ルリ子」または「エミコ」を探してほしい、少なくともその消息を辿ってもらえないかという相談を受けたのはすぐ後のことでした。私たちはとりあえず引き受けることにしました。「エミコ」という女性がなぜ「ルリ子」という名前を手紙に書いたのかについて、彼は全くわからないと言い、本名は「ルリ子」だが英国人には発音しづらいのでニックネームとして「エミコ」を使っていたのではないかという私たちの推測には同意しませんでした。また、2つの名前を探さなければならないだけではなく、浅山・朝山、恵美子・江三子・瑠璃子など、正式な漢字も分からず、かなり難しい仕事になると予想しました。

その後、数年にわたり以下を含むいくつもの方法を試みました:

言うまでもなく、私たちはこれ以上情報が出てくる可能性は低いと感じていました。ましてや、ルリ子/エミコが実際に見つかるという確率は極めて少ないとも感じていました。お2人の年齢を考えると、50数年の間に亡くなった可能性も充分あり、マキロップさん自身もそのことを意識されていました。彼からの電話を受けるたびに、「何の進展はない」または「これもやはり行き詰まりだった」と伝えなければならないことはかなり辛いことでした。とりわけ「名前が削除された」というニュースを聞いたときは、一体どのように伝えたらいいものか頭を抱えました。しかし、新しい可能性を常に考え出していたので、彼が落ち込んでしまうことへの心配はさほどありませんでした。

そして2007年9月に広島/呉近辺の探偵事務所をもう一度調べることにしました。何軒かに問い合わせた後、最終的にはこちらの状況に深い理解を示してくれた良心的な探偵事務所、フォーチュンJAPANを選びました。「そこに住んでいる人々は必ず定期的にお米を買っていたはずだから、米問屋に聞いてみる」という新しいアイデアもすぐに出されました。調査依頼の正式な手続きが済み、いよいよフォーチュンJAPANによる調査が開始されました。数日の間、調査員たちは呉市内にある何百軒もの家々のドアを叩いて丹念な聞き込み調査を行いながら一家の消息を調べていきました。

そしてついに「見つかりました!」という返事が届きました。

担当者であったフォーチュンJAPANの重川さんから丁寧に書かれた調査の詳細な報告書が送られてきました。そこからの抜粋を以下に転載します。これを読んでいただければ、どれほど大変であったのか、またどれだけ「運が良かった」のか、よく分かると思います。

水・木

○○町の住宅図を確認したが、「アサヤマ」姓の家はなかった。続いて現地の聞き込みでも有力な情報が得られなかった為、呉市役所資産税課土地係にて旧土地台帳の閲覧を行い、土地区分図との照合を行った。この際に昭和25年から昭和50年までの土地台帳の照合を行ったが、該当はなかった。尚、○○町の地番は○番台までしか存在せず、地籍の番地と戸籍台帳の番地が異なる事が確認された。その後再び○○町全域で現地確認及び聞き込みを続けたところ、戦前から居住しているというS家に行き当たる。○○町に家を構えたのは昭和初期であったが、現在93歳になる先代の妻に話を伺うも、「アサヤマ」という名は聞いた事がないという事であった。しかし、現当主より「役所で働く知人に○○町○番地の現在の地番を問い合わせてあげよう。」とのご協力の言葉を頂いた。

S様より「確かに古い地番のデータには○○町○番地が存在するが、現在の具体的な場所まではわからない。」との情報を頂いた。地番(戸籍)の確認が可能である為、弁護士への依頼手続きを行う事とした。

呉市役所を弁護士事務所の職員と共に直接訪れ、公簿の取得申請を行った。その結果、○○町には改製原戸籍が存在しない事が判明した。 続いて、固定資産税課の土地台帳で○○町○番地の所在確認に関する書類申請を行ったところ、当時の○○町には○番地という地番が存在していた事が判明した。この住所を土地区分図と照合して現在の地番にあてはめると○○町西側に点在している事が推定された。現在の○○町○番地が当時の○番地にあたる事を割り出した。

上述の○○町○番地の全戸宅を調査員が訪問して聞き込みを行ったが、有力な情報は得られず。 50年前は農家が点在していただけで、現在では転出した家が多い。そしてその転出した農家が手放した土地を現在の住民が買う形で現在の○○町が発展した。近年では古い地番を持つ家が家人の老齢化に伴って、○○町から○○へと転出するケースも相次いだ為に古い地番が消滅して新しい行政地番へと移行した。この為、古い地番を知る人がいない状況となっている。○○町には現在530軒ほどの民家があり、本日は312軒を訪問し聞き込みを行った。その内不在が186件、有効面会件数は126軒であったが、「アサヤマ」姓及び「○○町○番地」に関する情報は得られず。

残る230軒及び昨日不在だった居宅の再訪を行う調査班と旧家を訪ねて情報取得を図る調査班に分かれて調査を実施した。S宅を再訪したところ、地域に古くから居住する人物としてH氏(80歳女性)を紹介して頂けたが、H氏も「アサヤマ」「鍼灸院」「○○町○番地」に心当たりはない。M氏も紹介して頂けたが不在であり、近隣住民に尋ねたところ、入院しており、子どもたちも皆独立して外へ出たので、家には誰もいない。已む無く再びS宅を訪問したところ、K氏を紹介して頂いたが、留守であった。夕刻に再びK宅を訪問したところ、M家の裏手に住んでいるY家は、以前は「浅山」(アサヤマ)姓を名乗っていたという有力情報が得られた。浅山家は戦時中は呉市内に住んでいたが、空襲で焼け出されてM家の裏手にある現在Y家が住む家に住むようになった。その後、他の家人が転出した後も浅山家の二男若しくは三男がそのままその家に住み続け、その人物は後にYという家に養子に入る。その人物は何十年も前に亡くなったが、現在もその人物の妻が住んでいる。浅山家が住んでいた当時、この辺りの家は10軒にも満たず、またその頃の住民は皆他所へ引っ越して現在もこの土地に残っているのはK家とM家くらいとの事。調査員がK家に続いてY家を訪ねたところ、留守であった。

早朝にY家を訪問し、判明した事項は以下の通り。
Y家は浅山○○氏(上で述べた三男)が養子となったが、既に故人となっている。ルリ子という名の姉妹はいない。枝美子(エミコ)という名の姉妹がいるが、最近までは呉市で居酒屋を経営していた。
この枝美子氏が依頼人の探されているアサヤマエミコ氏と同一人物である可能性が高いと判断し、調査員が枝美子氏と面談するべく浅山枝美子氏の家を訪問した。
枝美子氏は現在73歳。ピーター氏の事はよく覚えている。TVでピーターという名前を耳にするたびにスコットランドのピーター氏の事を思い出す。調査員が、ピーター氏が枝美子氏を探していると伝えたところ、枝美子氏は「長生きしているとこんな驚くような、楽しい思い出が呼び返される事もあるんですね。」と泣き崩れてしまった。調査員が枝美子氏を訪ねる数日前にふいにピーター氏の事を思い出されたそうで、「今頃なんでこんな昔の事を思い出したのかと不思議に思っていたが、この前触れだったのでしょうね。」と本当に驚かれていた。

その後

またお互いに連絡が取れるようになってから、マキロップさんと浅山さんはやや複雑なルートを経由して昔の友情を復活させています。浅山さんがフォーチュンJAPANに送った手紙はそこからBJ日英翻訳事務所にメールで送られ、そして翻訳されてマキロップさんに転送されます(マキロップさんからの手紙は同じルートを逆に通ります)。特別な事情のために、フォーチュンJAPANもBJ日英翻訳事務所も基本的に経費だけをいただいています。

2008年の12月に日本、スコットランド、イングランドの3ヶ国間の国際電話で二人がまた通訳者(城雲図・勉)を通じてお互いの声を数十年ぶりに聞くことができました。その映像が広島ホームテレビで同年のクリスマス・デーに以下のように放送されました。

そして2009年の11月に、また通訳者(城雲図・勉)を通じて、英国放送協会BBCの協力を得て、インターネット経由で二人のビデオ会議が実現しました。

オンライン(ooVoo)での50数年ぶりの顔合わせ

その映像もご覧ください。

広島ホームテレビ(日本語)

BBC(ゲール語)

また、2010年9月6日の朝日新聞にも関連記事が掲載され、心がぽかぽかするニュース―HAPPY NEWS〈2010〉でも紹介されました(138頁、「半世紀ぶりのラブレター」)。

ピーター氏と枝美子氏に関する朝日新聞の記事

二人はピーター氏が数年後に他界するまで長距離連絡を続けていました。